メスキータ展
東京ステーションギャラリーのメスキータ展に行ってきた。
最近よく、『ほろびぬ美』という川端康成の短編を思い出す。
民族が興亡しても、その美は滅びないと説くこの文章は、敗戦後も途絶えることのなかった日本の美の系譜について語ったものだ。
けれど個人的には、今回のメスキータのことも、この文章から思い出されるような気がしてならなかった。
ポルトガル系ユダヤ人だったメスキータは、その出自からホロコーストの対象となり、1944年にアウシュビッツで亡くなっている。
アウシュビッツには、入所前に没収された、夥しい数のめがねが展示されているのだけど、それは最近、ボルタンスキー展で見た《ぼた山》という作品にそっくりだった。
ボルタンスキーは幼少期にホロコーストを経験し、その記憶を元に制作を行なっている。だから、脱ぎ捨てられた大量の服が山を成すその作品の根底には、そうした収容所のイメージがあるのかもしれない。
今回の広告塔である眼鏡の男性は、私にとって、アウシュビッツにある《ぼた山》を連想させた。
そして、この《ぼた山》が、存在を消された、無数の人々の象徴なら、私は今回のメスキータ展をみることでようやく、その中に埋もれていた一個人と巡り会えたような気がする。
メスキータは明確なコントラストがあるものから白黒の木版画を作ることに反対していた。
それは同時に、彼が世界を驚くほどシャープに捉える、素晴らしい感性の持ち主であったと伝えている。
そんな人が最期に行き着いたのが、色彩など凡そ死んでいたであろうアウシュビッツだったのは、とても悲しい。
彼はアウシュビッツで亡くなったけれど、作品はエッシャーのような教え子に守られ、その美はいまも脈々と受け継がれている。
その様子は、『ほろびぬ美』の中にある、「美は次々とうつりかわりながら、前の美が死なない。」という言葉を思い起こさせるようだ。
最近また少しずつ、自分の意に沿わない存在を認めない風潮が高まっているけれど、メスキータの作品を見ていると、果たしてそんなことに意味はあるのかと、改めて考えさせられるような気がした。