美術鑑賞手帳

主に美術館巡りの記録。たまに雑記。メインはインスタ@dillettante.7

【ネタバレ・考察】今更ながら非常にはっきりとわからない展の感想をまとめてみた話

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展示を見て、泣き出す人がいたとか、怒り出す人がいたとか…
興味深い感想がSNSに溢れて、注目を集めた、千葉市美術館の〈非常にはっきりとわからない〉展。

仕掛けが分かってしまうから、投稿を控えていたけど、会期が終了したので、以下、個人的な感想です。



″どっちで降りよう?″

〈非常にはっきりとわからない〉展の会場は、7階、8階と、二つの階に跨っているのに、順路がなかった。
だから、この謎だらけの展示で、まず、皆の頭に共通して浮かんだのは、そんな疑問だったかもしれない。


ここで突然だけど、
人生は些細な選択の連続で成り立っていると、
感じたことはないだろうか。

もしあのとき、違う道を選んでいたら…

そんな風に、きっと誰しも一度は、
想像してみたことがあるはずだ。

しかし、それはあくまで想像に過ぎず、
実際のところ、選択しなかった行動の先に
行くことはできない。
だから、今回の展示でもどちらで降りるか、
個人的には、それなりに迷ったのだけど…


でも、この展示に限っては、そんな選択の迷いは、
全く問題にはならなかったようだ。

なぜならどちらへ行っても、
あるのはまったく同じ空間だったのだから。



一体どういうことかと思われるかもしれないけど、
これは本当に言葉通りの意味で、
面白いことに、二つの階はあるものが全く同じだった。

会場は写真のように、およそ何かの展示が行われているとは思えない、雑然とした空間なのだけど、
それぞれの階は、梱包された作品や、無造作に置かれたダンボール、ごみ、メモ…
果ては割れたガラスの、そのヒビの入り方まで、全て同じように作られている。

ただ、見た目は全く同じでも、双方、起きることが微妙に違う。

どこからともなく現れた作業員が、ある展示室の壁を動かしたと思えば、もう一方の空間では同じ頃、また別の部屋で、いくつも箱が動かされている。

そんな風に、二つの世界は、一時的に異なる形になりつつも、また寸分狂わず同じ姿に戻ることを繰り返す。


面白かったのは、たった一階分を移動するのに、
階段が使えなかったことだ。

そういう展示なので、何が同じで、何が違うのか、何度も二つの空間を行き来して、確かめたいと思ったけど、
この展示では何故か階段が使用禁止になっていて、必ずエレベーターを使わなくてはいけなかった。

階段なら、自分がどう動いたかは、
自分で明らかに分かる。
でもエレベーターだと、明確な動作が伴わない分、
その感覚は曖昧になる。
そして、行き着くのは、同じようでいて、
起きることが違う世界だ。

それは、エレベーター内の選択次第でシナリオが変わる、パラレルワールドにいるかのようで、エレベーターという箱型の装置を使って、枝分かれした世界線を自由に行き来するような、不思議な体験だった。


さて、そんなことを何度も繰り返していると、自分が今、7階にいるのか、8階にいるのか…
つまり、上にいるのか、下にいるのかという認識は、次第に曖昧になっていく。
そしてもっと言うと、もはやそんなことには、何の意味もないように思えてくる。

今回の展示は、かつて地球で、N極とS極が反転していたことを示す〈チバニアン〉という磁場逆転地層から発想を得たそうだが、
確かに、この上下の概念が崩壊していく感覚は、その現象を想像させるものがあった。



最近の美術展は、SNSで拡散されることで、人気が出ていく傾向がある。

特に近年でいうと、レアンドロ・エルリッヒ展、塩田千春展は、ビジュアルの訴求力が高く、SNSを通して、多くの人が来場した。

対して今回の展示は、そもそも会場内の撮影が禁止だったし、唯一撮影できた一階の受付部分も、工事現場めいた、いわゆる、「映えない」空間だった。

では、何故、この展示がSNSで集客を上げたのかといえば、それは他でもない、この展示の「わからない」というテーマゆえだったのだと思う。

現代アートを扱っていると、「これは何を意味してるんですか?」と聞かれることが度々ある。

世の中では、あらゆることに意味が求められ、わからないことは、まるで悪いことのように言われがちだ。
でも、この展示は、普段、批判されがちな「わからない」ことの本質的な面白さを、沢山の人の反応を通して可視化していくようだった。

現代アートはわからない。
でも、面白い。

この展示を見た今なら、素直にそう言える気がする。