美術鑑賞手帳

主に美術館巡りの記録。たまに雑記。メインはインスタ@dillettante.7

クリムト《接吻》をみて

クリムト展に行ったので、昨年の秋、ウィーンに《接吻》を観に行った時のことを振り返ってみる。

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念願のクリムト

 

いくら画集をみても分からなかった質感がついに目の前に。想像していたよりもずっと厳かな煌めきだった。

 

この絵を初めて観たとき、幼心にどきどきしたのを覚えている。

女の人の恍惚とした表情をみて、これは大人な絵だ…と。今思うと初心で可愛らしいな。

君は未来の旦那さんとウィーンまでこの絵を見に行くのだよと教えてあげたい。

 

幸福と聞いてイメージする色は何色だろう。

人それぞれ、ピンクだったり、純白だったりするのかもしれないけど、この絵を見ると、金色のような気もしてくる。

2人だけの、眩いばかりの黄金の世界は、まさに幸福の絶頂を象徴するかのよう。

だけど2人の足元は、実は絶壁だったりして、愛の本質をよく表しているみたいだ。

 

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帰り道、老舗カフェのゲルストナーで食べたクリムト・トルテ。クリムト作品を思わせる金色のチョコレートケーキ。

見た目だけじゃなく、味も素敵。

 

 

クリムト展 ウィーンと日本1900

東京都美術館 クリムト展に行ってきた。

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今回は音声ガイドがおすすめ。

《女の三世代》の前で、マーラーのアダージェットが流れたのがすごく良かった。 

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人生の三世代は多くの画家が取り上げたテーマだけど、女性を描いたものは珍しいそうだ。

「自分には関心がない。それよりも、他人、女性に関心がある。」と語ったクリムトらしい。

最近、女性の生き方について考えさせられるニュースが多かったけど、この絵がとても綺麗で、少し救われるような気がした。

 

アダージェットを聴くと、生きる喜びというよりも、甘やかな死に沈んでいくようなイメージが湧くのは、映画「ヴェニスに死す」の美しいラストシーンが思い浮かぶからか。

ちなみに、マーラーはアダージェットを奥さんへのラブレターとして作曲したらしい。

ウィーン・モダン展の音声ガイドでは、クリムトが唯一、死の床に招いた女性《エミーリエ・フレーゲの肖像》の前でこの曲が流れていた。

 

他にも、《ベートーヴェン・フリーズ》の原寸大複製を観ながら、この作品のモチーフである第九の歓喜の歌が聴ける。お時間に余裕があれば是非。

 

 

ちなみに、今回、ミュージアムグッズもかなり充実している。

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こちらは、クリムト展のガシャポン

ベートーヴェンフリーズの悪徳三姉妹が出た。

一番狙ってたやつ〜!

 

ウィーン・モダン展

国立新美術館 ウィーン・モダン展に行ってきた。

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今回のメインビジュアル、《エミーリエ・フレーゲの肖像》は、青紫の地に金の装飾が揺らめく肖像画

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個人的にこの色合いにはなんとなく、クリムト自身を連想してしまう。

展示ではエミーリエの視線の先辺りに、クリムトの青いスモックが展示されていたのだけど、

それを着たクリムトが彼女の隣に立てば、ちょうど《接吻》の2人みたいに、一揃いに見えるかしら、とか…

彼らの不思議な関係性を考えると、つい、色々な想像を巡らせたくなる。

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クリムトの最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」だったと言われている。

そのエピソードからも分かるように、生涯結婚こそしなかったものの、深い仲にあったと言われる2人。

エミーリエは、クリムトの死後、2人のやりとりの手紙をほとんど廃棄してしまったので、その詳しい関係については未だに謎も多い。

けれどそもそも、廃棄という手段に、他者の介入を拒むような壁を感じる気もして…

だから2人がお互いに抱いていた感情については、なるべく余計な憶測は控えて、ただ作品の美しさの中にだけ、その答えを探すべきなのかもしれない、とも思う。

 

因みに、音声ガイドではこの絵の前でマーラーのアダージェットが流れる。

実はこの曲は、奥さんへのラブレターとして作曲されたものらしい。クリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》の前で流れるにはぴったりの曲だと思った。

 

速水御舟展

紫陽花が咲いているうちにと、山種美術館速水御舟展に行ってきた。

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速水御舟のどこが好きかといえば、まずはその名前から…というぐらいには、この画家が好きだ。

速水御舟は生涯に渡って、自分の絵に型ができることを恐れ、常に新しい挑戦を続けた。

その姿はまるで、流れに乗って進んでいく、美しい舟のようだ。新しい表現を求めて淀みなく進み続け、そしてあたかも先を急ぐかのように、御舟は、40歳の若さで亡くなってしまう。

初期から晩年にかけて流転する画風を見ていると、涼やかな名前と相まって、そんなイメージが思い浮かんだ。

 

作家は少なからず生まれた時代の影響を受けると思うのだけど、私は特にこの時代の日本画家が好きだ。彼らは、急速に西洋文化が普及した時代に、それに負けないような新しい日本画を作ろうと奮闘した。

西洋文化流入によって日本画壇が一時、脈が切れたかのような大きな変革を迎えるなかで、御舟の日本画には、やはり古典の伝統的な美が脈々と通っているのを感じる。

 

写真の《翠苔緑芝》は、紫陽花と兎、琵琶と黒猫の斬新な組み合わせが印象的な作品。特に紫陽花は特殊な技法で描かれていて、不思議な味わいがある。

せっかくなので、訪れるなら、ぜひ紫陽花が美しく咲いているうちに。この作品をモチーフにした和菓子もあって、可愛らしく、おすすめです。

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クリスチャン・ボルタンスキー展

国立新美術館のクリスチャン・ボルタンスキー展に行ってきた。

 

魂の重さは21グラムとか、死は青い光を放つ、とか…

死を研究した科学者は沢山いるけれど、果たして普通に生きていて、それについて深く考えるだろうか。

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子どもの写真が多いからか、あるいは工作めいたモビールのせいか、ボルタンスキーの作品をみていると、まるで小さな子どもに「死ぬって何なの?どういうことなの?」って繰り返し、問いかけられているような感じがする。

その質問に答えることは難しいけれど、多分、作品が求めるものは答えではなく、一緒に考えることなんだろう。そうして、それならばと、自分自身に問いかけるなら…

私にとって、死を想起させるのは一本のペンだと思った。

 

 

17歳の夏、手術を間近に控えていた頃。

憂鬱な気持ちで日記を書きながら、ふと、私という持ち主が死んでも、手元のペンの存在はかけらも揺らがないことに気づいた。 

そのとき急に、自分の存在が、一本のペンよりもはるかに脆く感じられて、驚いたことを覚えている。

私はペンに自分の不在を感じたけれど、ボルタンスキーにとって、それを思い起こさせるものは服なのだろうか。

展示に沢山の洋服を集めた作品があった。

持ち主を無くした服は、それでもなお、誰かの輪郭を感じさせて、かえってその不在を浮き彫りにするかのようだ。

ただ大量の服が積み重なっているだけなのに、まるで今はいない大勢の人達と対峙しているような、不思議な感覚を覚えた。

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ボルタンスキーの展示は死を想起させるけれど、それは恐ろしいようでいて、いたずらに人を怖がらせるものではない気がする。


作品から感じることは人それぞれだろうけど…

私は、この人の作品から、死の恐怖というよりも、まだ自分が生きているということや、残された時間について、深く考えさせられるような気がした。

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ジョゼフ・コーネル展 コラージュ・モンタージュ


千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館ジョゼフ・コーネル展に行ってきた。

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東京駅からの直通バスを使うと、行きも帰りも一本だけなので、半ば強制的に、自然の中でゆっくりすることになる。

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いつも時間の隙間を縫うようにして美術館に行くので、こんな風にゆっくりと絵を見たのは久しぶりだった。

最後は時間を持て余して、常設のロスコ・ルームに行き着いたのだけど、これが思いがけず、面白い体験になった。

 

 

ロスコ・ルームは小さな展示室いっぱいに、マーク・ロスコの赤い絵が7点かけられている。

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帰りのバスまでの間、この部屋のソファでぼうっとしていたのだけど、ふと俯いたとき、靴がぼんやりと赤く光っていることに気づいた。

照明の色は白なのに、不思議なことだ。

しかし見間違いかと思って、指先を見てみても、やはり薄赤く光っているように見える。

 

そうして、暫くしてようやく、あぁこれは絵の赤色なんだと気がついた。

まるで花が香りを放つように、この絵もまた、静かに色を発散している。

絵から漂う色に自分が包まれていることに気づいたとき、あたかも作品の中に入り込んだかのような、不思議な感覚を覚えた。


抽象画というのはあまり得意ではないけれど、こういう体験をすると、普通の絵を見るより、よほど面白いのかもしれないと思う。

 

 

と、ここまできてジョゼフ・コーネル展について何も書いてないことに気づいた。でももう、終わってしまった展示なので少しだけ。

 

ジョゼフ・コーネルは、ニューヨークの古書店や雑貨店で見つけたお気に入りの品を、箱に収めた作品で知られている。

 

喫茶室に作品をモチーフにした水菓子があった。

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繊細で美しく、冷ややかで、ほんの少し甘い。

コーネルの作品のイメージにぴったりだ。

沢山の箱が並んだ展示室は、幻想小説にでも出てきそうな秘密めいた雰囲気で面白かった。

松方コレクション展

上野 国立西洋美術館の松方コレクション展に行ってきた。

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日本語で「かなしみ」は、美に通じる言葉だと、言っていたのは、誰だったろう。

今まで色々な睡蓮を見たけれど、こんなに悲しくて美しい、モネの睡蓮は初めて見た。

 

 

日本の人々のために、美術館をつくる。

松方コレクションはその目的のために、実業家の松方幸次郎が、私財を投げ打って蒐集した一大コレクション。

火災や戦争に巻き込まれ、作品は焼失、あるいは散逸し、一時、その夢は潰えたかのように思われた。

しかし戦後、フランスから一部の作品が返還され、ようやくコレクションは、国立西洋美術館という安住の地を見つける。

 

今回の展示では常設のものに加えて、ゴッホマティスなど国内外に散逸した作品が一堂に集められており、松方さんが目指した夢の美術館が、束の間、具現化されたかのようだった。

 

 

そんな数々の作品のなかで、今回、一番印象に残ったのが、モネの《睡蓮、柳の反映》。

 

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これは、睡蓮の大作なのだけど、戦後の混乱の中、画面の上半分が大きく失われ、もはや作品とは呼べないようなものになってしまった。

実際、作品リストからは削除され、長い間忘れ去られていたらしい。

本来であれば、こんなに大きな睡蓮の絵、沢山の人に愛されて、松方さんの思った通りに、その素晴らしさを日本の人に伝えていたはずなのに…

失われた100年を思うと心が痛む。

展示は、一部の欠損もない綺麗な絵ばかりだったのに、それでも、ともすると泣きそうになるぐらい心が動かされたのは、唯一、この絵だけだった。

松方さんは、日本の人々のため、そして日本の画学生のために、このコレクションを作った。

じゃあその頃、日本の画家はどういう絵を描いていたのかな…というところで、美術館巡りは山種美術館速水御舟展に続きます。