岡上淑子展
祝日明けの火曜日。
顔真卿、奇想の系譜、小原古邨にふられて、久しぶりの庭園美術館に。
確かクリスチャン・ボルタンスキー以来かな。
ボルタンスキーの時は、館のどこからか囁き声が聞こえてきたり、録り溜めた人の心音が鳴っていたりと、結構、幽霊屋敷的雰囲気で、それはそれで面白かったんだけど、今回も旧朝香宮邸という立地がよく生かされた展示だった。
岡上さんの作品とアール・デコ調の邸宅の雰囲気が合っていて、作品と現実の空間の境界線が曖昧になるよう。
その上時々、ディオールやバレンシアガのドレスが部屋にひっそりと佇んでいて、オートクチュールのドレスを着た首の無いマネキンたちは、そのまま作品から抜け出してきたみたいだった。
展示では、本館を劇でいうマチネ、新館をソワレに例えていたけれど、個人的に本館の方は、まるで美しい魔物が集う、奇妙な舞踏会にこっそり紛れ込んでいるようで楽しかった。
この雰囲気は、普通の美術館では中々出せないだろうな。余韻に引き摺られて、思わず図録を買ってしまった。
ソフィ・カル 限局性激痛
原美術館 「ソフィ カル 限局性激痛 」に行ってきた。
原美術館というと、この前行ったのは、ポリフィローの夢だから2014年か。
確か、前の前の彼氏と付き合っていた頃で、でもすぐ別れたんだった。だからこの美術館は、何となく失恋の予感のする場所。この展示に個人的にはぴったりね。
展示を見て、まず思ったこととしては、「マジ、そんなクズ野郎、別れて正解じゃね?」という感じ(言葉が汚い。すみません)。でも思わず乱れるわというぐらい、非道い人だ。一方的な見方しかしてないけど…でも付き合ってる時に「君のこと物凄く好きな訳じゃないから安心しない方がいいよ」とか言うかい…
この展示の秀逸なところは、失恋までのカウントダウン(これも言葉にすると何だかロマンチックで良い)というより、第2部の、自分の失恋体験を色々な人の一番辛かった話と交換することで、心の傷が癒される過程を見ていくことだと思う。
悲しみは時と共に薄らいでいくとはよく言うけれど、その絶対に目には見えない感覚を、視覚的には辿っていくのは新鮮な体験だった。
カルと同じような失恋体験に始まり、強弱をつけて、様々な人の最も辛かった出来事が、淡々と並んでいく。
それをどんな人が話したのか分からないけれど、でも皆、彼女の身近にいて、きっとなんてことない顔をして日々を過ごしていたのだ。
どんなに深い悲しみも、目には見えない。けれどカルのように、痛烈な痛み(限局性激痛)を経験しながら、その記憶と共に今を生きている人は、とても美しいと思った。
マリアノ・フォルチュニ展
三菱一号館美術館のマリアノ・フォルチュ二展に行ってきた。
これまで200以上の展覧会に足を運んで気づいたことだけど、意外なことに知ってる作家よりも、え、誰それ?みたいな人の展示の方が、楽しかったりする。
あまり知名度の高くない展覧会だと思うけど、今回のマリアノ・フォルチュニ展もその例に漏れず、とても好きな雰囲気だった。
展示室に入ってすぐ、目の前に本物の「デルフォス」があって、思わず見入った。
「繊細なプリーツ」の一言では表現しきれない、本当に美しい襞。
この物凄い襞は人が手作業でつけるのだそうだ。
どこか神秘的な造形美で、それに目を奪われたときの気持ちは、高い技術に感心するというよりもむしろ、植物の自然な美しさに見惚れる感覚に似ているような気がした。
このドレスは、ごく薄い生地がぴったりと身体の線に沿って流れ、女性の姿を優美に見せる。
コルセットを使わなくても、女性らしい美しさを充分に引き出せるとは思わなかった。
こういう開放的な女性服をみると、ウィーンモダン展にあったエミーリエのリフォーム・ドレスを思い出す。
考えてみると、やはり同じ時期なので、この頃の女性の社会進出、それに伴うコルセットからの解放という時代の趨勢が、国こそ違えど、同じような形で表出したのが、こういったファッションなのかもしれない。
そして、エミーリエがクリムトの事実上のパートナーであったように、どうやらフォルチュニにもアンリエットという素晴らしい妻がいたらしい。
優秀な男の影にはこれまた素敵な女性がいるとか、そんな格言があったような気もするのだが、当のデルフォスを発案したのも妻のアンリエットだったそうだ。
フォルチュニはよっぽど彼女を愛していたのか、展示中にはフォルチュニが描いた彼女の絵など、2人の仲睦まじさが感じられるようなものがあって微笑ましかった。
そう、絵も、この人は描いているのだけど、ヴェネチア派に学んだという言葉通り、豊かな色彩が美しく、こちらもまた見応えのある作品で驚かされた。
そしてデザイナー兼画家、というだけでも充分凄いのだけど…
マリアノ・フォルチュニはその他にも版画家、舞台照明家、舞台芸術家、舞台衣装デザイナー、テキスタイルデザイナー、写真家、染色技術の発明家など、八面六臂の活躍をした総合芸術家だったようだ。
ポスターを見て、ただの服飾の展示と思っていたのだけど、全然そんなことはなくて、様々な角度から楽しめる珍しい展覧会だった。
因みに、併設カフェでは、コラボメニューが登場中。
デザートはクレームダンジェという、布を使って作るちょっと面白いチーズケーキ。爽やかな味わいで、この季節にぴったりだ。
このカフェは内装もクラシカルで素敵なので、展覧会の余韻のままに、優雅な時間を過ごせる。
そういえば、コピーに「100年たっても新しい」という言葉があったけど、ちょうど今、同じように100周年を記念して行われている展覧会がある。
バレル・コレクション展
Bunkamuraザ・ミュージアムのバレルコレクション展に行ってきた。
美術館に行くばかりだとつい、作品は鑑賞するもの、というところで思考が止まってしまうけど、コレクション展をみると、そもそも作品は売り物なのだという、当たり前の事実に気づかされる。
コレクターという存在は、美術史の上で語られることは多くないけど、こういう人がいたからこそ、今見れる沢山の素晴らしい作品があるのだ。
だから、どうしてこの絵を選んだのか、所々、バレルさんの意見を聞いてみたい気もしたのだが、今回の展示ではあまりそこが掘り下げられていなかったのが、少し残念だった。
そう思うと、敢えて蒐集順に並べて、コレクター自身の言葉を添えていたフィリップスコレクション展は、やはり面白い見せ方だったと思う。
来週からまた、松方コレクション展が始まるけど、こちらはかなり劇的な来歴があるだけに、どういう展示になるか、今から楽しみ。
そんなことを言いつつ、印象に残った絵をあげるとすれば、やはり、アンリ・ル・シダネル。
個人的には、ふと見かける度につい、一作一作、見入ってしまう画家。
今回は2作品あって、雪の絵と、夜の船着場の絵だった。
この人の絵はとても不思議な色彩で、実際にみると、絵の表面がきらきらと光って揺らめいているような感じがする。特に雪の絵はすごい色だった。
風景画は現実の世界を、画家のフィルターを借りて眺めているような感じがして、それが本当の景色にも劣らず美しいとき、新鮮な驚きがある。
ただ、画像だとうまくこの色合いが伝わらないので、あえて載せず…本物の色はぜひ展示室で。
ルート・ブリュック展
東京ステーションギャラリーのルート・ブリュック展に行ってきた。
「お腹の中に蝶々がいる。」と、フランスでは、恋に落ちたようなときめきを表現するらしい。
初めて聞いた時は、随分不思議な感覚だと思ったけど、今なら少し分かるような気がする。
展示室を出てからしばらく経つのに、お腹の中で未だに、小さな蝶が羽ばたいている気がしてならない。
ルート・ブリュックはフィンランドを代表するセラミック・アーティスト。
素敵な作品ばかりだったけど、特に心に残ったのは蝶をモチーフにしたもの。
彼女のお父さんは蝶の研究者だったそうなので、そういう背景もあって、蝶は重要なモチーフだったらしい。
今回の展示のタイトルも「蝶の軌跡」。
確かに、ブリュックの制作スタイルは具象的なものから抽象的なものへと、生涯に渡って大きな変化を遂げる。
くるくると変化するその作風を辿るのは、蝶が自由に飛んでいくのを、展示室の中、ただ無心に追いかけていくようで楽しかった。
ところで実際の蝶の軌跡は蝶道というらしい。
ある種の蝶は太陽光の僅かな移ろいを捉えて、飛ぶのだそうだ。
そういう話を聞くと、晩年、光の表現を追究したブリュックの姿が、光と影の間を縫って飛ぶ蝶に、重なって見えるような気もする。
ギュスターヴ・モロー展
パナソニック汐留美術館のギュスターヴ・モロー展に行ってきた。
キャプションでは度々、作品を宝石に例えていたけれど、本当にそう思う。
モローの作品を鑑賞する愉しさは、職人が技術の粋を尽くした、宝石細工を見る時に似ている。
実際、モローは「夢を集める職人」を自称したそうで、インド、中国、日本などから収集された様々なイメージが、煌びやかな装飾となって、作品を彩っていた。
…と、モローというと、ついその装飾性に目がいきがちなのだが、今回の展示では彼のの優れた色彩感覚も感じることができた。
習作や未完成品が比較的多かったのだけど、何気ない色合いや陰影が本当に絶妙。
装飾が省かれた習作だと、その鮮やかさが一層際立つ気がする。
モローはマティスやルオーを教えたそうだが、そういう美しい色彩感覚は確かに彼らへと受け継がれているかもしれない。
これまで、魔性の女達を描き、自宅に引きこもって暮らした、神秘の画家…というのが、モローのイメージだったのだけど…
この展示では彼の内面にも少し、触れることができて、今までと違った印象になった。
生涯、モローが愛した女性は2人いて、母ポーリーヌと恋人のアレクサンドリーヌ。
二人とも、モローが描いたファムファタルとは真逆の聖女のような女性だったそうだ。
モローが恋人と自分を描いたイラストがあって、それがあまりに可愛らしく、微笑ましかったので、謎めいていた画家の姿が少し身近になった気がした。
パリにあるギュスターヴ・モロー美術館は、
元は画家の自宅だった建物で、3.4階が展示室になっている。1万4千点の作品を収蔵すべく、仕掛け棚などもあるらしい。
扉を開くと、モローの絵が、いくつもいくつも…
壁一面、扉の裏まで、絵で埋め尽くされているそうだ。
まるで宝石箱みたいな美術館。
いつか行ってみたいと思う。
キスリング展
東京都庭園美術館のキスリング展に行ってきた。
今回は12年ぶりの日本での回顧展だそう。
それでもって、じゃあその前は?と調べてみると、これまた更に15年前だったりして…
キスリングの展覧会は、日本じゃ珍しいんだなぁ。個人的には好きな画家なのだけど。
キスリングというと、「キスリングの少年 初恋のひとみ」という、とある歌のフレーズが思い浮かぶ。
キスリングの瞳は、特徴的なアーモンド型。
ぱっちりとした美しい目なのに、夢見るような印象を受けるのは、遠くを見つめるような眼差しのせいか。
キスリングの肖像画は、その滑らかな絵肌と相まって、生々しさがなく、どこか人工的で、ビスクドールのような感じがする。
だから私はいつも、お気に入りの人形を愛でるような感覚でキスリングの肖像画を眺めている。
あと、花や果物の静物画も良かった。
花も果物も、色彩が物凄く鮮やか。それなのに、色合いが美しいからか、くどくならず、素敵だった。
今回のカフェのコラボケーキは「マカロン・パリジャン」。
エコール・ド・パリの画家の中で最も早く成功を収めた画家、モンパルナスのプリンスとも呼ばれた、キスリングに相応しい、華やかなケーキだ。